五所社から岩倉街道を少し北に進むと願王寺(小田井善光寺別院)がある。
以下、伊藤喜雄さんの論考から。
願王寺は、天長6年(829)、疫病が流行り多くの人が亡くなった時、越後の憎澄純法師が仁王護国般若経を誦み、病が平癒した事から一寺を建立し願王寺と名付け、白山権現を勧誘し寺の鎮護とした。兵火や水害に罹る等度々衰退、再興を繰り返して明光山藤林坊(松樹院)と称していた。
文明の頃僧祐秀(文明18年没:1486)が中興し、妙光山長興寺と改称し、小田井城(清須市西枇杷島町)の鬼門除けの祈願所とした。文明13年(1481)長興寺の塔頭、東雲軒で行われた清須城主織田大和守敏定の戦勝祝いの様子が.万里集九の「梅花無尽蔵」一巻の七言絶句に詠まれている。この戦勝祝いは敏定か岩倉城の織田伊勢守敏広を破った戦いで、敏広は戦死、子の寛広は守護の斯波義良に帰順した。その後、寺は廃されたようで、跡地に明応元年(1497)織田常寛が東雲寺を建てた。
天正元年(1573)織田寛維の弟で小田井城主、織田又六郎寛廉(太郎左衛門信張)が東雲寺の隣地に七堂伽藍を寄進し長興寺を再興。天正3年(1575)熱田海蔵寺の憎仁峯永善(加藤順盛の子)の賛詞がある伝織田又六画像(織田信張)は、県の文化財となっている。
元和3年(1617)に渡辺半十郎が弁天・涅槃像(市文)、寛永2年(1625)知行主の尾張徳川家付家老竹腰道輝(山城守正信)が地蔵尊・釈迦如来を寄進。この頃に旧寺号願王寺に改称し明光山松寿院と号した。明治42年(1909)信州善光寺より善光寺如来の分身仏を勧誘し、昭和4年(1929)善光寺造りの本堂を建立し善光寺別院と呼ばれる。本堂前のもう一つの本尊、薬師如来はへちま薬師と称され咳・痰・喘息に御利益があると言う。
境内の入口には鳥居が建てられ、両サイドにインドの神が並べて安置してあり、その間を通って山門を潜るという面白い構成である。現在の本堂は旧本堂の柱や梁等の構造体を残し屋根と壁を取り去り、全休を鉄骨合掌造りでガラス張りの大屋根で覆った建物で、昭和49年(1974)に落成、昭和52年度(1977)の日本建築学会賞を受賞している。境内の「明光閣」は岩倉街道沿いにあった庄屋、平手家の母屋を平成15年(2003)移築した江戸時代末期の建物で、庭園の四阿も移築されている。仏間には仏壇を洪水から守るため二階に揚げる、巻き上げ装置が残されているのは珍しい。街道沿いの土蔵も移築されて保存されている。庫裡の腕木門は、名古屋城の三の丸にあった東照宮の神宮寺(東照宮の東隣)、権現坊天長坊尊寿院の内の門を明治3年(1870)に移した門で大正期に「福来門」と名付けた。

願王寺参道。節分会の幟がずらりと並んでいた。

手前の像は、韓国済州島の守護神像トルハルバン。向こうの像は、インドネシア、ジョク・ジャカルタのカルダ像(天竜八部衆のひとつ)。

トルハルバン

「福来門」と名付けられた山門。

日本建築学会賞を受賞した本堂。

平手家の母屋「明光閣」