味鋺村は、昔から庄内川の氾濫による洪水に悩まされてきた。護国院の本堂にも船(潅漑用と洪水用、箱型の田船)が置いてあったそうだ。稲置街道沿いの古い民家は玉垣の上に建てられ、洪水に備えていた事がわかる。その中でも、林家・鈴木家・長瀬家の水屋は、代表的な建物である。街道の東、西方寺跡の西北に、高石垣に蔵を建て薬医門(寺社風の二重垂木)を備えた大きな屋敷がある。幕末から明治にかけて財を成した豪農鈴木家の屋敷で、大正期の建築である。
天神通の道路を横断して街道を北に向かい、消防団詰所(火の見櫓跡)北の変則四つ角を西へ行くと、南側に玉石の高石垣に建てられた長瀬家がある。屋敷の西北角に一段と高く水屋の面影を残す蔵がある。これは、明治元年(1868)犬山の入鹿池が破水し、大水が味鋺まで押し寄せてきた時、西八竜社下流百間(110m)の所でも庄内川の堤防が決壊し、冠水寸前になった。そのため、かさ上げして明治期に建てられたもので、洪水の凄さを物語っている。この南側には、大正元年(1912)建てられた蔵も残っている。
長瀬家の東側は護国院の西北の稲置街道の升形(弘法堂がある)から分かれ、味鋺村から鏡池の西を通り如意村に通じる村人の生活道路で北街道と呼ばれた。道幅は大八車がやっと通れるくらいで、すれ違いの待避場が長瀬家に残されている。

長瀬家

玉垣が2段になっていて、高い方は人の背丈ほどある。

この水屋も背丈ほどの玉垣の上に立つ。

道路と建物の間のスペースが待避場の跡