14年ほど前に山川出版社の『愛知県歴史散歩』の執筆に加わった。その時、執筆した原稿をいくつか復刻してみようと思う。まずは、「長母寺」から。
矢田駅から西に向かい、瀬戸街道をわたり、名鉄瀬戸線の踏切を渡ると木ヶ崎(きがさき)公園に出る。公園に沿って北西へ150mほど行くと長母寺(臨済宗)への石段の前に出る。石段を上ると山門とその奧に本堂が見える。
長母寺は、治承3年(1179)山田次郎重忠が母の菩提を弔うために創建したと伝えられる。初めは亀鏡山桃尾寺と称し、天台宗の寺であったが、のちに寺門が衰えたのを、弘長2年(1262)山田道円坊(どうえんぼう)が再興、臨済宗に改め、無住(むじゅう)国師を招じて開山とし、霊鷲山(れいじゅさん)長母寺と称するようになった。無住はこの寺で50年を過ごし、『沙石集(しゃせきしゅう)』に代表される多くの著作を残した。また無住は寺領味鋺村の農民に万歳(まんざい)を教えたと伝えられ、長母寺は尾張万歳発祥の地とされている。
蒙古が襲来した弘安4年(1281)、後宇多天皇の勅願所となり、さらに足利尊氏の祈願所ともなり田地の寄進をうけた。その後、戦国時代の兵火に焼かれて衰微したが、慶安3年(1650)、沢彦和尚が再興し、さらに天和2年(1682)に雪渓和尚が、2代尾張藩主徳川光友の命で堂宇を建立した。
開山堂に安置されている木造無住和尚坐像(国重文)は、無住の自刻と伝えられ、鎌倉時代の肖像彫刻の秀作の一つで、10月10日の開山忌に開帳される。そのほか、無住道暁文書(国重文)、『沙石集』版木、蓑虫山人(みのむしさんじん)山水画などの寺宝がある。
蓑虫山人は、岐阜の出身で本名土岐源吾という。江戸時代の末期から明治時代にかけて全国各地を流浪し、多くの山水画を残したが、明治33年(1900)長母寺で没した。
開山堂の裏側には“足洗いの池”があり、土用の入りの日にここで手足を洗うとひびやあかぎれに効くという言い伝えがあり、かっては参詣客で賑わったという。

「無住国師入定地」の石碑

長母寺山門

手前が「開山堂」、向こうが「本堂」

「開山堂」に安置されている「無住国師坐像」

蓑虫山人 明治28年4月撮影 60歳

蓑虫山人画 「対岳楼」部分(秋田、千田平三郎の自宅展望台)

「ハートピア安八」企画展ポスター

木ヶ崎公園入口

木ヶ崎公園から見た矢田川橋方向

新版『愛知県の歴史散歩』1992年刊