尾張旭あれこれ

尾張旭市に居住して40年がたちました。退職してから、じっくりと自分の住むまちを見つめなおしています。意外に古い歴史があり、自然も豊かです。しかし、開発の波に押され、貴重な文化がどんどん失われていくのも現実です。備忘録のように、尾張旭とその周辺のことを書き留めておこうと思います

 

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投稿者:川手一豊
古いほうの愛知県史に熱田区の神戸は、熱田神宮の神人の里であったとありました。またその南に広がる星崎の塩田地帯にあった星崎城は山田重忠の創建とネットの記事にありました。往時の山田の荘はこのあたりまで広がっていたようですので、矢田川流域を支配していた山田一族が熱田神宮を本所とする塩や尾張の産物の交易権を手にしていた可能性が考えられませんでしょうか?私は神戸に居た山田頼範が奥三河に移住し、その子孫が地名である川手の姓を名乗り信州、甲州一円に広がったと考えているのですが、どうでしょうか。
投稿者:masa
塩の道を押さえていたというのは、十分考えられることですね。「碵走」というのが気になりますが、暇ができましたら「寛文村々覚書」などで調べてみます。
投稿者:川手一豊
愛知県名古屋市熱田区神戸町という地名が残っていますが神戸郷の名残でしょうか。碵走というのは何かの記事に出ていて書き留めたもので、読み方も分かりませんでした。山田氏は重忠が承久の乱で敗死した後菱野の荘(瀬戸市)の地頭で復活していますが、その頃信州方面への塩の商いをしていたようです。神戸郷が熱田付近にあったとすると、星崎の塩浜があったあたりで、ぴったりきますね。山田頼範は奥三河川手城で同族足助氏とともに足助塩の商いをしています。ちなみに武節、川手の地は神戸郷、瀬戸、岩村を経由して川手、武節から信州塩尻に通じている伊奈街道でつながっています。これまで頼範が川手に移住した理由が分かりませんでしたが、この辺に何かありそうな気がします。貴重な情報ありがとうございました。
投稿者:masa
中世の神戸(ごうど)郷は、愛知郡に属し、熱田神宮を取り囲む一帯だと考えられます。
現在の熱田伝馬町の西のあたりが神戸町です。しかし、春日井郡となると位置が違って来ますね。碵走村は何と読むのでしょう?碵は「セキ」か「イシ」でしょうか。走は、「ハシリ」か「ハシ」ですか?「イシハシ」なのかな?
投稿者:川手一豊
ひとつ調べてもどうしても分からない事があるのですが、知っている方がいらっしゃいましたら教えてください。山田範頼が1335年尾張から三河の山奥へ移住するんですが、尾張の神戸の郷、今の「春日井郡碵走村」あたりから移住したとなっているんですね。この碵走村という地名は恐らく町村合併で消滅したんじゃないかと思うんですが、いくら調べてもわかりません。どうか知っている方がいらっしゃいましたら、よろしくお願いいたします。
投稿者:masa
川手様、足助氏もそうでしたね。武節という地名を知らなかったのですが、地図で確認しました。武節城跡があるのですね。川手城はまた別の地なのでしょうか。川手氏が、地理的にも武田の臣になることは納得できます。
投稿者:川手一豊
masa様
深夜にもかかわらず、お返事を頂き感謝しています。清和天皇から重忠まではそのとおりだと思います。重直の次男が山田氏から分かれた足助重長で、足助氏七代目の重範のとき後醍醐天皇挙兵に従い笠置山の戦いで総大将をつとめました。山田氏も足助氏も筋金入りの勤皇の家でした。山田氏は名古屋から足助氏を頼って1335年足助の荘の最奥にある武節に移住したと伝わっています。
投稿者:masa
 川手様、コメントありがとうございます。姓氏をめぐっては、子孫の方からいろいろお尋ねがあります。私はあまり詳しくないのでうまくお答えできずにいますが、それなりに調べてみますと大変勉強になります。
 山田氏の先をたどっていくと清和源氏ですね。源満仲の弟満政が美濃国八島郷を根拠にして美濃源氏を確立し、その子孫浦野忠遠が尾張に進出した。
 清和天皇─貞純親王─源経基─源満政─忠重─定宗─重宗─重実─浦野重遠─山田重直─重満─重忠とつながっています。そして川手様の記述された系図に繋がりますね。
 源氏の系図は膨大ですね。
投稿者:川手一豊
こんにちは。山田氏の記事を見てはじめてお便りさせてもらいます。私の家は山田重忠の子孫と聞いています。山田氏は重忠―重継―重親―親氏―頼重―頼範―重忠−重胤−貞幹−貞俊―貞詮―貞政―貞義―義尭―景隆―良則と続き、頼範の時愛知県武節町川手の地に移住し川手城の城主として200年続きました。良則の時武田氏に臣従、その後井伊家の家老になり途中絶え幕末に再興されました。私の家は甲州に残った良則の子孫です。山田氏は甲州以降川手氏を名乗っています。今山田氏のことを調べています。何か知っている人が居たら教えてください。よろしくお願いいたします。
投稿者:masa
goyapapaさま。おはようございます。
大永寺は、山田二郎重忠が建立したときは「寿昌院」といったようです。その後、戦乱で消失し、大永元年(1521)に山田二郎重忠の子孫に当たる小幡城主岡田重頼が、「寿昌院大永寺」として再建したという記録があるそうです。
長父寺がどこに建てられたか私も知りません。もう一度調べ直して、解りましたら記事にしましょう。
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