「自由論」読了しました。
他の本はやさしいのに、専門の哲学となるととたんにむずかしくなる。
内山節は、歴史からみた社会と個人のありよう、自由ということを多くの哲学者の論を引き合いにだして検証し、現代社会で常識的にいわれる自由という概念を根本から考え直している。
興味深かったのがつい最近のように思える社会主義の崩壊を検証していることがある。
また、多くの場面で、経済のワクに翻弄される自由という構図が出てきた。自由だと言われてもどこが自由なんだと感じる現代の不自由さ。一定の経済のワクの中だけで得られる自由。そのワクに逃げ込む不自由な人など、色々あった。
ほんの一部、最後のところを抜粋してみよう。
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近代思想は、人間は個人としての固有の存在である、という思想的な立場に立っている。自由もまた個人に与えられた権利であるとされ、この自由が実現しうる社会秩序をつくろうとする、発想をもっている。
もちろん私も、人間が個人でもあることを否定しようとは思わない。
・・・・略・・・・
問題はその個人のとらえ方である。近代思想は、個人を固有のものとして、つまりすべての関係を断ち切っても、なお個人という実体が存在するものと考えた。だが、それは妥当な発想だったのだろうか。そうではなく、さまざまなものとの関係が、個人という実体をもつくりだしているのではないだろうか。
たとえば私は、私とともにある関係のなかで生きているのであって、その関係をすべて失ってしまったら、私という個人もまた成立しえないのではないだろうか。
そして、もしそうだとすれば、私が自由な存在を得ようとするためには、自由な関係を創造する必要があるはずである。
このように考えていくと、自由を固有の個人が所有する権利としてではなく、自由な関係の創造のなかにとらえる新しい思想が、重要さをましてくる。
つまり私は、個人の自由の権利を旗印にして、社会秩序や世界秩序を構築しようとする世界観から、他者との関係のなかに、自由や私たちの社会が創造されていく、そんな世界観への転換をはかりたかったのである。
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本文にはまた、「自由の多元性と「場所」との関係」などという項目もあり、生活の場所で自由を創造していくことも言っている。
まあ、社会の一部の人は理屈ぬきでそっちの方向へ進んでいるような気もするが(私のことか)、その膨大な論拠に一度目を通されるのもいいかも。
写真は机の隅の顕微鏡と、300ミリ、180ミリレンズ。後ろの糞などのデータを保存するボックス。
数年ぶりにやっと本や釣り道具、資料などを整理することができた。ほんとにやることが遅いのだ。
こんなこと書いているとホッシーから電話が・・・アセアセ!

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